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2005年 01月 14日

阪神大震災回想3~生活の復旧、人の強さ

◆このメモを書いてみると、つくづく記憶なんていい加減なもんだと思う。自衛隊が来て給水や入浴サービスが始まったのはいつ頃だったか、交通機関の復旧はさて何ヵ月後だったか、もう忘れてしまっている。それでも水の苦労についてはけっこう憶えている。電気は早々に通電していたし、ガスはカセットコンロがあったが、水がないと生活しようがない。震災後、全国各地から給水車が来てくれた。それは有難いことであったが、2時間余りの行列をしてやっとペットボトルの半分1リットル程度の給水だったりする。ボトルいっぱいの水をもらおうと思ったら、また2時間ほど並ばねばならない。とにかく慎重な担当者に当たれば災難だとこの点はみんなに不評であった。文句不平をいうなと叱られるかもしれないが、被災者も時間がたくさんあるわけではない。結局、通勤先でもらったり、近所の酒屋が頑張って仕入れてきたミネラルウォーターを買ったりした(そうそう大阪が全くの別天地であったことも驚いたことのひとつである。別に嫉むということではないが、あまりの極端な違いに戸惑ったことは事実)。さらに下水用の水も要る。噴水池の水、受水槽や高置水槽の放出水など、いろんなところから取水した。10リットルのポリタンクは絶対必要な常備品で、それも上水用と下水用の二つ必要である。幸いにというか季節柄入浴の欲求はあまり感じなかったし、洗濯も同様である。食器の洗い物もしない、紙皿にラップを敷いて使ったりしていた。シンプル・ライフというか、それが意外と気楽なのである。夜は家族が川の字になって寝るだけである。
 その水問題に関しては、自衛隊がやってきて小学校の庭に簡易水槽や浴場を設置してくれた段階で一息つけた。あの頃は仕事から帰宅してすぐさま校庭に向かったものである。そして、余震の恐怖がだんだん緩和され、水事情や物資の流通事情が改善するにつれ、生活レベルは着実に回復していった。交通機関も日々復旧が進む。通勤等今から思えばたいへんで、もう一度しろと云われてもしり込みするだろうが、当時はみんな同じ条件であり、なにより、これ以上悪くはならないだろうという思いがあった。自宅に住めた人ならば、だいたい震災後半年ぐらいで、8割がた元の生活レベルに戻れたように思う。もちろん、仮設住宅の人はまだまだであったが。
 いまふりかえって、当時の雰囲気はさばさばというか実にあっけらかんとしたものであったように思える。もちろん身内に犠牲者があったひとは別のとらえ方があろう、それは当然であって、そこは違うと云われたら甘受するしかない。
 一般に災害=悲惨、暗いといったイメージでくくられるが、ここまで強烈な大災害になるとどこか突き抜けてしまうものかもしれない。あるいは無意識のうちに哀しみを閉じ込め辛さは我慢して心のバランスを図っていたかもしれない。マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスになる現象にどこか似ている。それに加えて関西人特有の韜晦もある。悲惨さを強調するのはむしろかっこ悪い。「いやあ二階に寝とったんやけど起きたら一階やったわ」「目が覚めたら空が見えましてな」といった具合である。とにかく震災直後の数ヶ月間は原始共同体的というか人類皆兄弟のようなふんいきではなかったか。ふだんはない声かけが復活し、そして譲りあいの精神、みんな同じ被災者であるから他人に優しくなれたのだろう。
 しかし、半年たっても建物は亀裂をさらしたままで、その復旧は手つかずのままだ。苦労はまだ先にあった。
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by chaotzu | 2005-01-14 21:32 | 身辺雑記


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