マイ・ラスト・ソング

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2005年 04月 16日

追悼 福士明夫 日韓野球の架け橋逝く

◆日本と韓国のプロ野球で活躍した福士明夫氏が亡くなっていた。まだ54歳だというのに、和歌山の南部でひっそりと逝ってしまった。
 昭和44年に鳥取西高校から巨人入り、甲子園準優勝投手の新浦寿夫(静岡商中退)と同じく外国籍はドラフト対象外というルール(当時)の間隙をついてドラフト外(自由競争)で入団した。なお、同期のドラフト1位は武相高校の島野修投手である。
この3人で将来の投手補強は万全とみられたが、結果として戦力になったといえるのは新浦投手ひとりだけ、4年間在籍すれど当時の川上巨人では芽が出ず、野村南海にトレードされた途端に開花した。その年の日本シリーズで古巣巨人相手に投げたのではないか。当初はレンタル移籍の含みもあったようだが、本人が巨人への復帰は拒否したという後日談もある。ふてぶてしくみえる投球とうらはらに繊細な一面もあり、巨人の環境ではやりにくかったようだ。
 その後は広島、韓国と移り、それぞれ活躍したのはご承知のとおり。とりわけ韓国野球1年目の30勝は大車輪の活躍である。ただ、ハンチョッパリ(半日本人)と云われて苦労もかなりあったらしい。韓国野球を引退してからはすっかり音沙汰なしのところの訃報であった。b0036803_0272575.jpg
◆日本で通算91勝、韓国でも54勝しており、いってみれば日韓野球の架け橋、大功労者といえる存在である。それだけにあまりに淋しすぎる最期に思えてならない。
 選手としての登録名もひんぱんに変っている。松原明夫→福士明夫→福士敬章→張明夫、韓国プロ野球時は別として、広島カープ在籍時に姓も名前も変えてしまったが、非常に珍しい例である。このときにいったいどんな事情があったのか。本日の朝日夕刊記事によると他人の保証人のかたで広島の自宅を手放すはめになり、実母宅に身を寄せていたらしい。妻子とも別居していたようであるし、野球をはなれてからの不器用な生き方がうかがえてもの哀しいものがある。
◆前述の新浦投手もその後韓国野球に渡って活躍したが、その時に糖尿病を発病し現在も闘病している。島野投手の後年はご存知阪急ブレーブスの“ブレービー”を務めていた。
昭和44年巨人入団同期の投手3人、それぞれの人生いろいろだが、50代ならぱまだまだこれからだし、あまりに早すぎる死である、合掌。
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by chaotzu | 2005-04-16 23:59 | 野球


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