マイ・ラスト・ソング

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2005年 08月 03日

【DVD】 「原爆の子」 ピカの日に死んだものはウジ虫じゃ

◆もうすぐヒロシマそしてナガサキに原爆が投下された日がやってくる。
どんな理屈をつけようが、原子爆弾は非道な犯罪行為である。人類の歴史においても残虐な場面はいろいろあっただろうが、戦闘要員でもない一般市民を無差別にそれこそ病人から赤ん坊まで大量一瞬に抹殺してしまうということでは、歴史上最悪レベルの残酷さである。それも予告なしの不意打ちなのである。
いつまでも恨みをひきずることは前向きなことではないが、なんらかの人種差別感情があってこその大量殺戮ではないのか、そういう疑念を拭えないこともたしかだ。
先日の朝日新聞で気になる報道があった。池田勇人と佐藤栄作の両元首相が、アメリカ政府に対して、日本国内に核武装論があることを内々伝えたところ、アメリカ側があわてふためいて「核の傘」提供に動いたというはなし。
1960年代の旧いことであるし、今となって両元首相の真意を知るすべはないが、老練な政治家による外交上の駆け引きであったと願いたいところである。本気で検討していたとはどうも考えがたい。まして、池田勇人は広島出身である。
しかし、昨今の若手政治家の同種発言については、一抹の危惧を感じざるを得ないのだ。百歩譲って日本が核武装に踏み込んだとしても、もはや国民の安全を担保できるものではない。それはニューヨークやロンドンのテロで明らかになったことである。北朝鮮のごとく「物乞い」の手段としての有用性はあるかもしれないが、それも軽侮されるだけだろう。
いずれにせよ、日本人は原爆の悲惨さを忘れてはならないし、それを後代に引き継ぐとともに、外国(とくにアメリカ)に対しても粘り強くアピールしていかねばならない。それこそが国際社会に果たす日本人の役割ではないのか。お金をばらまいて常任理事国になれたとしても、アメリカの子分とみられているかぎり、どこも真剣に耳を傾けてくれないだろう。
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◆1952年日本映画(近代映画社、民芸)新藤監督は広島の出身、劇団民芸の役者さんも総出である。驚くべきことに敗戦後7年、サンフランシスコ講和条約の発効により独立した1952年4月28日から僅か3カ月後の公開である。アメリカ占領当時からの製作であることを思えば、映画人の勇気の結晶といえる作品だ。

◆ヒロシマ原爆から7年後、ひとり生き残った小学校の先生乙羽信子が、夏休みを利用して当時勤めていた幼稚園の生き残り園児を訪ねてまわるはなし。モノクロであるが、ビカドン後の凄絶な場面が回想シーンとして出てくる。
1人目の男の子は靴磨きで貧しい家計を支えている。自宅を訪ねるも父親が原爆症で危篤状態という間の悪さ、母子に来客を接遇する余裕はなくとげとげしい。2人目の女の子は孤児になり修道院に引きとられているが、寝たきりでもはや余命いくばくもない。おまけにかつて使用人の爺や(滝沢修)と偶然出会うが失明して乞食同然に落魄れている。真にここまでは悲惨きわまりない話つづきで、どうにもやりきれない。
◆3人目の男の子でやっとほっとした気分になる。両親を亡くしたものの、4人兄弟が肩を寄せ合って明るく暮らしているのだ。ちょうど姉が嫁ぐ日で長兄(宇野重吉)は感無量である。倒壊した自宅の下敷きになって、びっこをひいている妹であるのに、復員してきた婚約者の態度が変わらなかったことに感激しきりである。“もう神さまかと思いましたよ”
兄の付添いで足の悪い姉が黄昏のなかバスに乗って嫁いでいくシーン、何の嫁入り道具もなく風呂敷包みひとつであるが、これまでみた映画のなかのどの花嫁よりも素晴らしく美しい。最高のウェディング・ロードである。
◆さて、爺やには可愛い男の孫がいる。乙羽先生は将来を考えて2人を島暮らしに誘う、はじめ頑として応じなかった爺さんも、隣の婆さんの説得で孫を手放すことに同意するが、嫌がる孫を説得するために採った手段はあまりに哀しいものだった……。
滝沢修、自分的にはどこか怜悧なイメージがあったが、全くそれをくつがえす悲痛な熱演である。
◆隣のばあさん役の北林谷栄、このときまだ40歳そこそこであったのに、堂々たる?ばあさんぶり、90歳で出演した「阿弥陀堂だより」のばあさんと全然変わっていない!
50年間歳をとらなかったみたいで、まさに、永遠の婆さん女優である。
考えてみたら、ワタシはこの人の素顔をみたことがないかもしれないな。
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by chaotzu | 2005-08-03 23:12 | 日本映画


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