2005年 09月 08日
◆1971年東映映画、シリーズ6作目。3作目の「花札勝負」の続編的設定である。そういえば、ニセお竜の遺児である目の悪い女の子、せっかく手術が済んだのに、喧嘩出入りのためにその後ほったらかしであった。苦労して探しあてると、浅草で女スリ稼業に転落している。お竜さんとの涙の再会場面は、もうクサいのひと言。天使の如き緋牡丹お竜に比べると、もうひとつ感情移入しづらいキャラである。この女の子(山岸映子)と彼氏(長谷川明男)はその後も無思慮な行動でお竜さんに迷惑をかけまくる。無理矢理筋をつくるための余分なエピソードとしかみえない。 ◆冒頭、廓の娘から「おばちゃん」と云われるお竜さん、このとき、藤純子はまだ26歳ぐらいだったはずだ。オイオイそりゃないだろうってもんである。実際にシリーズ当初に比べても、藤純子の美しさ、艶やかさが際立ってくる。尾上菊五郎との交際がだいぶ進んでいたのかと勝手に得心する。 今回の舞台は浅草六区界隈、私設警察的存在のアラカン一家にワラジを脱ぐ。アラカン、本シリーズに再三出ているが、役名はちがってもキャラ設定はみんな同じ、すなわち人格者で非戦主義の親分、だから毎度悪玉やくざにつけこまれる。 悪役は安倍徹、これからはキッタハッタじゃない、アタマで浅草をものにしてやるとにんまり笑う。ただし天津敏ほどの愛嬌は感じられない。 ◆緋牡丹シリーズ悪役の特徴 ・いやなことは直ちに忘れて、すぐさま次の悪巧みへ。どこまでもポジティブ・シンキング ・自分が悪いんじゃない、いつもダレかに責任転嫁でストレス対策はバッチリ ・約束は平気で破る、一対一の果し合いなんてバカのやることさ、勝てば官軍だ ・盆勝負には必ずイカサマを使う。偶然なんかにや頼らんぞ なるほどなるほど、悪玉にも三分の理というか、どうしてどうしてバカにしてはいけない。 ◆菅原文太がこんどは善玉の渡世人で登場、お竜さんを助ける。二人が雪の今戸橋でいったん別れるところは、情感あふれる名場面だそうだが、文太には実録やくざのイメージがありすぎて、どうもいけない。広島弁の文太がすっかり刷り込まれている(笑)。 お笑い関係は京唄子と鳳啓助、啓助が女優のおちょぼ口に感心、云わんでもいいのに、 “アンタの口やったら俵一俵入りまっせ” 唄子がすかさず逆襲、 “別れる前、ふとんの中でその口で食べてもらいたい云うたんは、どこのダレや” おなじみこのコンビの定番ギャグだ。 ◆執念深い安倍徹、アラカンを罠にかけて闇討ちする。アラカン、六区のお客さんが第一、事を荒だてるなと云いつつ絶命。 親分の意を汲んで安倍一派との和解の場に臨むが、そこでも縄張りを寄越せと無理難題をふっかけてくる、お竜さんもとうとう堪忍袋が切れかかる。 そのとき、熊虎親分(若山富三郎)が突然登場、悪玉衆を投げ飛ばしピストルをぶっ放し、こっそり逃げようとする黒幕天津敏ちゃんの首根っこをつかまえて “夫婦の盃はかわしてへんけど、兄弟分の盃をかわしたわしの可愛い妹分に何してくれるんじゃい、お竜さん、こんガキどないしまひょ” と凄んで、たちまちひとりで一帯を制圧してしまう。 お竜さんにはニンマリユルユルのだらけ顔が、悪玉衆に向けば鬼みたいな顔つきで睨みたおす。 安倍徹もびびりまくって、指つめてあやまるしかない。この映画いちばんの見せ場であり、スカッとすることうけおい。 ◆指つめたぐらいで安倍徹の野望は消えない、謀略にかけてはどこまでも前向きで悪知恵はつきない。お竜さん、とうとう一対一の果し合いを申し込む。どちらが勝っても恨みはなかですばい。 場所は十二階こと凌雲閣、関東大震災で倒壊するまで浅草のランドマークであった。戻ってきた菅原文太が心配して随行すると、案の定親分ひとりどころか、子分がいっぱい。鉄砲まで用意している。まことに悪い奴ほど運任せにしない。 ラストはいつもの展開、こんなはずじゃなかったのにと悪玉が倒れます。
by chaotzu
| 2005-09-08 22:06
| 日本映画
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