2005年 10月 09日
◆ふ~っやっと読了、それにしてもエドムラサキのおっさん、女形もやるけったいなコメディアンかと思っていたらただ者じゃない。なんとも複雑な人間である。自分の出演した映画みんなウンコ呼ばわりである。なんちゅうか、江戸っ子の矜持というかキョーレツな自負心が、そこにひそんでいるのを感じてしまうのだ。 小学館刊、単行本初刊は1999年4月。1999(平成11)年1月25日に74歳で亡くなった三木のり平の芸能回顧録みたいなものである。「みたいなもの」というのは、のり平が自ら著述したものではなく、小田豊二というフリーの編集者の聞き書きだからである。この分野では竹中労の「聞書アラカン一代」という大傑作があるが、本書の面白さもひけをとらない。もっとも、エッチ度では負けるかもしれない(汗)。 聞き書きといっても、実際はたいへんな作業だろうなと思う。のり平が興がのるまま喋べりまくったことを、忠実にテキストにしたら膨大な分量になるだろう。だいぶ編集しなければならない。のり平独特の語り口を活かして、なおかつはなしの核心を洩らしてはならない。たいへんな作業だろうと思う。8割方は編集者の著述作業といっていいかもしれない。 ◆さて三木のり平である。本名は田沼則子(タヌマタダシ)、関東大震災の直後に尾久のテント村で出生、妾腹の子であり、浜町の待合のせがれとして成長する。日大の芸術科に入って同級生が西村晃、戦争中に俳優座の前身に入団する。だから、本人には生涯、舞台人意識がある。しかし、のり平が新劇の出身とは知らなかった。 戦後、左翼運動に傾斜して芝居をしない新劇に愛想をつかして、冗談音楽の三木鶏郎グループに加わる。後の水戸黄門(西村晃)も特攻隊帰りのこの時期、せっせと共産党のビラ貼りばかりしていたそうだ。 のり平の芸名の変遷がおもしろい。トリロー・グループに入ったからみんな三木ということではじめは「三木則子」、それがミスプリで「三木則平」、そして「三木のり平」に落ち着いたとある。芸名なんてホントにいい加減なものだ(笑)。ただ、そのおかげで江戸紫(のり佃煮)のCMが舞い込むのだから、何が幸いするか分からない。 ◆一般にのり平といえば、喜劇映画の俳優イメージが強いが、本人はそれをものすごく毛嫌いしている。「社長シリーズ」に「駅前シリーズ」なんて、もうめった切りのクソミソである。 “社長シリーズ?あんなの実にくだらない映画ですからね” “糞だよ、ウンコ。作品なんてもんじゃないよ。だから見たことない、” “芝居もクソもない、おもしろくもなんともないよ” “駅前?ああ、あれもくだらなかったな。ずいぶん出たよ。どーでもいいよ、あんなの” オイオイ、そんなこと云われたら、「駅前」や「社長」をひいひい喜んでみていたオイラの立場はどうなるんだい(苦笑)。 映画はただお金を稼ぐ手段と割りきっている。とにかく演劇人としての矜持たるやものすごいものがある。 “シゲさんがどんなに名優だろうと、やっぱり元アナウンサーだし、加東大介だって前進座では脇だったんだから、芝居をさせたら負けないよっていう自負があったし、映画なんかで俺の芸を評価されてたまるかって気持ちはあった。こちとらは、千田是也とか青山杉作に新劇を教わったってんだから” たしかに、映画のなかで、この人実はすごく醒めてるんじゃないかとみえるときがある。森繁の浮気に茶々入れるときなんかそうで、目が全然笑っていない(笑)。 ◆映画のほうはかなり謙遜が入っていると思いたい(なによりそうじゃないと、こちらが浮ばれんよ)。パーッといきましょひとつにしても、なかなか簡単に出来る芸じゃないはずだ。 だから、こんなはなしもしている。 “駅前シリーズはみんなさりげなくやっているよ、舞台流につくってみようと相談したんだよ、カットを細切れにしないこと、そう長回しにしてさ、勝手に芝居させたんだよ。監督なんかなにも注文出さないもの、台本なんかあってなきがごとしだよ。監督はなにも云わないで、ただクックッとわらってりゃ終わってしまうんだから” ◆のり平が自ら本領発揮というのは舞台である。とくに「雲の上団五郎一座」でのエノケンや八波むとしとの共演を懐かしんでいる。台詞回しに歩き方、アドリブ、芝居のはなしとなるともうとまらない。 “よく舞台で相手を食うか食われるかっていうでしょう。僕はそれが好きなんだと思う。役者同士が本気で「おっこうきたか」「そう来たらこういくぞ」みたいなレベルで舞台ができたら最高だけどな” 妻に先立たれ晩年は一人暮らし、生涯演劇人を貫いた人生、ええパーッと逝きましたとも。
by chaotzu
| 2005-10-09 21:12
| 読書
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