マイ・ラスト・ソング

chaotzu.exblog.jp
ブログトップ
2005年 11月 03日

テンポイント物語

◆昼下がり、NHKスペシャルの再放送「ディープインパクト」をぼんやりみていると、ある馬の思い出が浮んできた。
「テンポイント」、もう30年近い前に66.5kgという今ならば考えられない重量を背負った馬である。ユニークな馬名は活字のサイズ呼称からとられた、10ポイントの活字、すなわち大見出しになるような名馬に成長してほしいという馬主の願いが込められている。
父馬のコントライトは他に目立った産駒のない平凡な種牡馬であるが、母馬ワカクモは桜花賞馬、この馬にも数奇な出生譚があるが、それはまた別のはなし。

b0036803_23304676.jpg◆今で云う新馬から3歳のさつき賞前までは順調だった。向かうところ敵なし、栗東から久々のスター・ホース出現、褐色の貴公子とか騒がれたりした。当時は関東馬、関西馬の対抗意識が強く、いまと違ってずっと関西馬が劣勢つづきであった。よく考えれば所属厩舎の場所のちがいだけであって、実際の生産地とはなんの関係もない。だけど、ずっと関西馬が負け続けだったので、ファンの期待がこの馬に一身に集まったのである。かつての阪神タイガースファン心理に近いものがあったといってもいいかもしれない。関西テレビの名物アナであった杉本清の杉本節も炸裂しまくる。
“みてくれ、みてくれこの脚を!これが、関西のテンポイントだ!”

◆しかし、さつき賞になって、宿命のライバル「トウショウボーイ」が突然出現する、こちらの父馬はテスコボーイ、いまでいうサンデーサイレンスのようなもので、スピード、スタミナのバランスがいい良血馬である。
3歳時はほとんど、このトウショウボーイに歯が立たなかったといっていい。菊花賞でやっと先着したものの、このときはインをついた伏兵グリーングラスにしてやられるし、年末の有馬記念では2着に捨て置かれる。このとき、大半のファンはもう勝負付けが済んだと思ったものである。わたしも京都でみたが、貴公子といわれるほどの迫力はたいして感じず、案外さえない馬体だなと思ったものである。アトで思えば成長途上の雌伏時代だった。

◆4歳になって、ふたたび快進撃を開始、とくに夏を越してからの成長充実は著しく63kgの重ハンデで楽勝した重賞レースもある。いまから思うとものすごい記録である。
宿敵トウショウボーイに完全に雪辱したのは、ふたたび有馬記念。このときの両馬のマッチレースは語り草になる名勝負で、終始一貫して2頭だけのレース、アトの6頭はほとんどおいてけぼりにされた。ふつう先行逃げ切りとか後方待機の差しきりとかの勝負パターンがあるが、そんな公式一切なしの壮絶な競り合いバトル、抜きつ抜かれつを2500mずっとやったのである。
“先頭はテンポイント、テンポイントだ……”
ついでにいうと、このときのトウショウボーイに騎乗した武邦彦がディープインパクトの主戦騎手武豊の父親である。云い忘れたがテンポイントの主戦騎手は鹿戸明でいま調教師。

◆5歳馬になってから欧州遠征のプラン、ファンの多くが凱旋門賞の栄光を夢想した。日本最後のお別れレースとして出走したのが、1978(昭和53)年1月22日の日経新春杯、ハンデ戦であり、なんと重量66.5kgを背負わされる。ところがこれが仇になる。粉雪の舞い散る真冬の京都競馬場、第4コーナーの手前あたりで競争を中止してしまう。予後不良といわれる重度の骨折だった。関西テレビの杉本アナは狼狽してしまって、もうレースの実況放送どころではない。
“あっとテンポイントおかしい、おかしい。これはどうしたことか、これはエライこと、これはエライことになりました”

◆当時の常識ならば直ちに薬殺処分であったが、ファンの助命嘆願すさまじく、異例の手術が施される。しかし、結局のところ1か月ちょっとの延命にしかならなかった。
そして、1年後の阪神競馬場毎日杯、今度は名騎手の福永洋一が落馬で再起不能の重傷を負ってしまう。この時分からだんだん競馬からはなれていく、仕事がだんだんと忙しくなっていたこともある。あるいはもう嫌気がさしたのかもしれない。
ディープインパクトはこれまでみたなかでは、間違いなく最速馬だろうが、まだ最強馬とまでは決められない。ライバルがおらず強さを計る尺度がみあたらないのだ。
いや、そんなことよりも、なにより無事であってほしいものだ。
[PR]

by chaotzu | 2005-11-03 23:39 | 身辺雑記


<< 殿下、お戯れはほどほどに      よくやったり八重山商工 >>