2005年 11月 17日
◆テレビ朝日の「熟年離婚」をついみてしまう、評判になっているらしい。渡哲也もとうとうホームドラマにおさまるようになったのかと思う、だけど場の空気に馴染めぬ役柄という点ではかつてのやくざ役と共通しているのである。そして松坂慶子がヨコにひろがったこと(失礼)、これぞ覚醒もとい隔世の感である。ドラマそのものは、富裕かつ健康な人々の「離婚ゲーム」のごとき印象なきにしもあらず、たしかに今の60歳代でも元気な人はアブラぎっている。まだまだ晩年ではないのだ。 さて、病気と闘い続けて離婚どころではなかったひとの本をやっと読みあげる。 ◆昨年の12月に71歳で亡くなったノンフィクション作家による未完の自叙伝である。あるいは壮絶な闘病記といえるかもしれない。 作者は新聞記者当時の不摂生に起因する糖尿病と体当たり取材で感染した肝炎による肝臓ガンを抱えている。連載前も右目失明、左目失明危機、さらに心筋梗塞、脳梗塞の発作は数知らずということであったらしい。 2000年4月にはじまった月刊現代への連載中も病魔との凄絶な闘いがつづき、再三執筆の中断を余儀なくされる。 時系列にまとめると 2000年 6月 下血により大腸がん判明し切除手術 4ヵ月休載 2000年12月 壊疽により右脚膝上から切断 3カ月休載 2001年 7月 壊疽により左脚膝上から切断 休載(期間不明) 2004年 6月 大腸がん再発?による体調悪化 3カ月休載 2004年10月 右手指の壊疽進行 2004年12月4日 多臓器不全により死亡のため絶筆 いやはやなんとも……である。最後は両眼もほとんど失明状態になって、なお激痛を堪えて書き続けたらしい、絶筆となった原稿をみると、もうふつうの筆跡になっていない。物書きの執念だろうか。 ◆もともとは読売新聞の記者出身であるが、古巣批判は辛らつきわまりない。それも実名おかまいなしだから、当の読売OBは戦々恐々であったろう。筆者が読売を退社したのは正力松太郎のマイ・カンパニーと化して、社内にゴマスリがはびこったことに嫌気がさしたからとしているが、とりわけ紙面の私物化には我慢できなかったとある。もっとも、大正力そのひとの事業人としての才覚、先見性は認めており、編集権に介入するようなことはなかったらしい(大正力にとっては、メディアも商売のひとつにすぎなかった)。悪いのは言論人としての矜持をなくした茶坊主による権力者への阿諛追従である。 その筆者にして、社内言論まで統制しているいまのナベツネ体制には呆れかえっている。昔よりもっと悪くなっているそうだ。 ◆そんな読売新聞でも、かつては社会部が輝いた時代があった。「交通戦争」キャンペーン、(1961年~)そして筆者が関わった買血業者との闘い「黄色い血」キャンペーン(1962~)である。 相手は731部隊の残党が創設した日本ブラッドバンク、戦犯追及から上手く逃れた連中が戦後社会でも利権ギルドをつくりあげている。売血常習者から買血して暴利を挙げるが、血清肝炎が蔓延しても平気のおかまいなしである。筆者は山谷のドヤ街に潜入取材してルポルタージュを発表、買血業者に宣戦布告する。この結果、日本ブラッドバンクは買血を中止し、社名まで変更する。それがミドリ十字であり、血漿分画製剤に転じて後に薬害エイズの惨禍を引きおこすのであるが、筆者はキャンペーンが中途半端であったことをずっと悔やむことになる。 ◆タイトルに用いた「拗ね者」のとおり、ただいまの日本の現状については、かなりシビアにみており、「飽食日本、ポチ化した日本人は落ちるところまで落ちてしまえ」「痛い目にあわないと分からない」と痛烈きわまりない。あるいは遺言の意志があったのかもしれない。かつての共産党員(ナベツネや早坂茂三)が転向して権力にすりよるさまを横目に、生涯社会部記者で持ち家なしを貫いた言論人としてのプライドがあったのだろう。 しかし、後半になると、話があっちにいったりこっちにきたりで、目にみえて散漫になっていく、自らの病気についてはさらりと書くだけで、闘病の苦労、病勢の進行による苦痛は一切記述していないものの、行間に溢れてくるのはまぎれもなく闘病記である。 ◆それにしても重い本である。A5版582頁、1キロ近くある。なかなか持ち運べない、いやとてもそんな気になれない(苦笑)。情けないはなしである。塩野七生の「ローマ人の物語」も文庫化してまた売れているらしい。同憂の士は多いということなのか。
by chaotzu
| 2005-11-17 23:07
| 読書
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