2005年 08月 13日
◆亡くなった富島健夫に「青春の野望」という自伝的小説……というか自分的にはエロ小説があるが、その冒頭に敗戦後起きた杉山元帥夫婦自決事件が記されている。陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三権トップを全て歴任した元帥杉山元は、富島健夫の旧制福岡県立豊津中学の先輩なのである。 自決事件が起きたのは、昭和20年9月12日。阿南大臣が事後処理を放擲して自決してしまったので、降伏処理が片付くまで延び延びになっていたのである。 小説家が元帥ゆかりのひとから公表を許された事実も含まれると付記した自決のてん末、 ・杉山元帥の意思は本人独りの自決であり、夫人の後追いは思いとどまらせるよう属官に頼んでいた ・杉山元帥は拳銃弾四発を胸に撃ち込んだものの、なお死ねなかったので、最後は軍医が毒物を口に流し込んだ ・きっぱり自決を否定していた夫人は、夫の死亡確認後すぐさま自刃した 意外に思ったのは属官等周囲の人間がダレも自殺を諫止しようとしないことである。それどころか、ほとんど自殺幇助行為をやっており、最後は毒殺そのものである。 ということは、当時の軍上層部に、高官の自決は当然という空気があったということなのか。 ◆杉山元帥の自決前日、対照的な自殺未遂事件を起した人物がいる。東条英機である。 山田風太郎の「戦中派不戦日記」の昭和20年9月12日の記述(抜粋) 「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。 なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。 逮捕状の出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損なっている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない。 逮捕状は続々と発せられるであろう。それにあたるべき人々はみな自決してもらいたい。 今、百の理屈よりも一の死は、後世に於いて千の言葉を以って国民に語りかけるにちがいないのだ。」 まことに、風太郎先生手厳しい。 ◆1998年東映映画、東京裁判で絞首刑になった東条英機が主人公であるが、あまりに東条像を美化しすぎだということで、公開当時から物議をかもした映画である。 なにしろ監修がイラク戦争イケイケの加瀬英明、そしてスポンサーは政治マニアがオーナーの東日本ハウスである。テーマははじめから決まっているも同然(笑)、悲劇のヒーローとしてのトージョー映画を製作しようということだ。東日本ハウス=青年自由党であることを踏まえれば、政治団体の近縁会社からもらったカネで映画をつくること自体、首をかしげざるを得ない。映画人の見識が問われるはなしであろうが、そのことはさておき、製作側がどれだけ映画人としての意地をみせたのか、そんな興味もあってレンタルする。 ◆これより30年近く前の東宝映画「軍閥」(1970年)のなかの東条英機は、多くの日本人を無意味な死亡に引きずり込んだ狂信的戦争指導者として描かれるが、本作ではまず家族想いの好々爺としてのイメージで登場する。しかも、東京裁判では日本人を代表して検事に堂々の論陣を張るのである。すごい変わりようである。もっとも、そのためにこそスポンサーは10億円近くをポンと出したのだろう。 ◆冒頭はお決まり東京裁判の正当性を問う法理論争、ひらたく云えば戦勝国による茶番ショーじゃないか。アメリカ人のキーナン検事がオーストラリア人のウェッブ裁判長に「命令」し、少数派のインド人パール判事は悩みぬく。アメリカ人弁護人が原爆の犯罪性に言及すれば、たちまち日本語の同時通訳はとめられる。 そして、武人東条であっても、家庭においてはよき夫、よき父親であり、よき祖父だった。家族との愛情溢れるエピソードや悲痛な出来事の紹介。孫が学校で先生から「東条君のおじいさんはドロボウよりひどいことをしました」と云われる。一時母方姓を名乗っていた娘が東条姓に戻してくれるという……。 次いで、先の戦争はアジアにおける白人の植民地支配からの解放支援であったこと、そのために、故チャンドラ・ボースや架空の元日本兵士(大鶴義丹)まで登場させる。 しかし、かきあつめた材料がこれだけでは、まだまだ悲劇のヒーローになりえない。 ◆きわめつけは、昭和天皇に累が及ばぬよう、東条が天皇の意思に背いて開戦に動いたことを証言するよう清瀬弁護人が依頼したときの東条の反応である。津川雅彦がオーバーアクションと思えるぐらい慟哭する。 “神とあがめてきた天皇陛下をこのわたしが裏切ったというのか。わたしは逆臣になるのか” 結局。東条は“わたしの進言によって(天皇陛下が)しぶしぶとご同意されたことは事実でしょう”と証言して、やがて絞首台に上がるのである。 “東条閣下、よくぞ耐えてくれた、あなたこそ天皇を守りきったヒーローだ” なるほど、昭和天皇の戦争責任を東条が身を挺して防いだということか。 しかし、東条を悲劇のヒーローに仕立てようとすればするほど、昭和天皇の戦争責任を炙りだすことになってくるのである。 みようによっては、ものすごく不敬な映画にみえぬでもない。 これってジレンマだったにちがいないな。 ◆仮に日本人による自主的な戦犯裁判があったとした場合、どうなっていたか。おそらくはもっと厳しくなっていただろうと思う。前述山田風太郎の日記のとおり、当時の日本人のなかには物すごい怨嗟の感情がたちこめていたのである。人民裁判まがいになってしまい、収拾がつかなくなっていたかもしれない。なにより衆目のなかで昭和天皇の戦争責任追及論議が起きることは避けられなかっただろう。 そういう観点からすると、戦後日本の指導者層にとって、本音ベースでは東京裁判アリガトサーン(by坂田利夫)だったのではなかろうか。 清瀬弁護人が作中でいみじくも語っているセリフがある。 “日本人及び日本民族に対しては有罪” ◆さて、映画人としての意地はみせただろうか。ワタシの主観的結論であるが、少しはあったと思いたい。 戦争未亡人の烏丸セツコによる壮絶な切腹シーン、巣鴨拘置所と市谷法廷を移動する戦犯護送車を体を張って停車させたうえで、ハラ切り抗議である。多くのよき夫、よき父親、よき祖父が、戦地であるいは空襲で亡くなった。なかには餓死したひともいる。戦犯に怒っても当然というものだ。 このシーンなかりせば、プロパガンダ映画といわれてもしかたがないだろう。 それにしても、ピストル一発のけったいな自殺未遂をひき起こした陸軍大将~戦陣訓を策定し生きて虜囚の辱しめをうけずの精神を説いた軍人の面前で、一般人の女性が腹をかっさばくのである。これって、物スゴい皮肉である。この映画のMVPは烏丸セツコに決定。 あと、検察側証人の田中隆吉少将役に吉本の「パチパチパンチ」島木譲ニを起用しているが、東京裁判のキーパースンにお笑い芸人を充てるとは、なんだか二重に茶化しているようにもみえる。
by chaotzu
| 2005-08-13 22:54
| 日本映画
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